|
|
发表于 2006-1-3 21:37:54
|
显示全部楼层
随筆
春の楽しみ-土筆狩り 江上尚志
早春の楽しみは芽生え始めた植物を愛でることにある。土筆(つくし)には幼かった頃の母との思い出が一杯である。土手や線路に土筆が芽生え始める時期から、やがて胞子が飛んでいってしまうころまで飽きることのないドラマがある。土の中から勢い良く出てくるときには土を押しのけるほどの力がある。それでいて繊細さは他の植物にも引けをとらない。ところが「スギナ」という似ても似つかぬ姿とは地下茎でつながっているという。どうしても親戚とは思えない形でもちろん食べることはできない。
一面のオオイヌノフグリの空色やタンポポの黄金色、それにホトケノザやヒメオドリコソウの薄紫色に心躍る。名前を知らないころはひと口に雑草と呼んでいたこともあるが、いのちある植物の持つ固有の名を知ることで喜びも一入(ひとしお)である。スケッチをしたり、カメラに収めたりすることも愉しいが、摘んだ植物が食べられるときには調理することを覚えたいなどとしおらしいことを考えるようになった。山野草の先生方について歩きいていると自然に学ぶ姿勢が身についてくるもののようだ。
毎年、弥生・三月の声を聞くと土筆を探しにいくのが年中行事になっている。「土筆狩」(つくしがり)と名づけたいほどである。日本では四季おりおりの行事に「○○狩り」という趣き深いものがある。食べるものとしてはタケノコ、苺、みかん、きのこ等があり、抽象的な夏の「蛍がり」秋の「紅葉狩」などもある。「土筆狩」がどちらに属するかは人それぞれかもしれないが、眺めたりスケッチするだけなら文化的であり、お吸い物や卵綴じを考えるようなら食文化ということになるのだろうか。
ところで「つくし誰の子スギナの子」というわらべ歌があった。インターネット検索で「つくし」を調べるとメルヘンタッチの詩や写真のページが並んでいる。「つくし」を見るときは目の高さ、つまり草むらに寝そべるような形で見ることが大切だ。「つくし」に円い帽子があって粉のようなものが一杯詰まっている。それを「胞子」と呼ぶのだということはずっと後になってからのことだ。スギナは栄養茎で利尿剤になるらしい。つくしが成長してもスギナにならないようだ。
つくしとの出会いは房州である。母の詩を紹介しよう。
松ぼっくり 江上 千代子 東京都大田区 主婦
浜辺に遊びに行くといったら
松ぼっくりが落ちているから
背負子をかついで行けと
村人にいわれて
背負子の中に三男を入れ
夫が背負い
私は上の二人の手をひき
浜辺に行った
倒産に生きる力も失せて
希望もなにも持てず
いっそ と
思いつめた日のこと
あれは 親子五人
連れ立って遊びに行った遠い浜辺
浜辺の松ぼっくりを拾って
逃げまわる夫の背負子めがけて
投げ入れる子供達
じっと見ている眼がぼやけて
死ぬものか 死ねるものかと
あの晩 子供のために
何が何でも生きて行こうと誓った
ふたたび生きる喜びにかえてくれた
あの耳の底に今も残る
おどろおどろと波の音
南房州の浜辺
(『わが心の詩「小川宏ショー・私のイメージ」より』サンケイ新聞社出版局)
小川宏モーニングショーという番組で取り上げられた母の詩である。様々な映像を主題に詩を書くというテーマで、ずい分長いこと続いたらしい。取り上げられたことを知ったとき私たち兄弟は大変な誇りに思うと同時に過去を懐かしんだものだった。手元にある本を開くと主婦である母の年齢(53歳)が書かれている。当時の私は28歳、父は58歳でようやく生活も安定してきたころだ。10年後に亡くなったが、母はそれから20年の歳月を生き続けた。
“お父さんと結婚しなければ”と遠くを見るような目で自分の才能のことを話したことがあった。父親を早くに亡くした母は親戚を頼って東京から九州に引っ越した。大正から昭和に変る頃のことである。比較的裕福ではあったが母親(私の祖母)が再婚したために単独戸主として誇り高く生きなければならなかった。女学生時代にはハンドボールの選手で文学少女だった。医学を希望したが結局のところ断念したこと、二十四歳で父と結婚したことで“お父さんに捧げた”のだとも言っていた。
「つくし」が胞子を飛ばして違う世界に種子を蒔くように、母も私たち兄弟それぞれに別々の生き方を教えてくれたようだ。詩を書いたり歌を詠んだりするDNAを兄弟よりも多くもらったようで、自分で言うのもおこがましいが私が「詩人になる要素」は幼かった頃に培われたようだ。大学に進むとき文学部に進もうと思ったのだが断念した。諦めきれずに詩を書き続け第一詩集を上梓してから40年あまり、気がつけば母が「松ぼっくり」の詩を書いた年をとっくに越えてしまっている。 |
|